マテリアルズインフォマティクス・材料
量子計算が化学で効く境界は、古典が動かしている
目次
分子や材料のふるまいを計算で予測する仕事は、化学と物理の実務そのものである。新しい薬の候補を絞る仕事も、電池の材料を選ぶ仕事も、最終的には電子がどう分布するかの計算に行き着く。ところがこれを厳密に扱おうとすると、必要な計算量は扱う原子の数に対して急激に膨らみ、ある大きさから先は計算できなくなる。
ここに量子計算への期待が集まってきた。量子計算は原理からしてこの種の計算に向いているはずだ、という期待である。実際、量子計算がどこまで大きな系に届いたかを示す報告値は、年々大きくなっている。
ただ、期待を確かめるには、届いた先だけでなく比べる相手が今どこにいるかも見なければならない。量子が効き始める境目は、量子側の性能だけで決まるのではなく、同じ問題を古典の計算機がどこまで解けるかで決まるからだ。古典側の計算能力が上がれば、境目はそのぶん大きな系の側へ移る。「ここまで届いた」という報告と「まだ古典で足りる」という報告は対立しておらず、同じ境目の位置を量子側と古典側から報告している。
量子が効き始める境目を動かしているのはどちら側なのか。届いた規模の報告と、古典側が押し返した報告を並べて読む。
境目を動かしているのは、量子側が届いた距離だけではない。古典側が押し返した距離も、境目を動かしている。 化学と材料科学は、量子ハードウェアの潜在的な「キラーアプリケーション」の分野と広くみなされている1。2026年に入って、量子と古典を組み合わせたハイブリッド計算はタンパク質–リガンド複合体の規模まで到達したが、著者のMerzら自身が「量子優位性の根拠とはみなさない」と明記した2。量子側が過去に「古典の手が届かない」と発表した成果についても、あとから古典手法が追いついた例を、EisertとPreskillが挙げている3。2026年3月には、量子アルゴリズムを当時のハードウェアと同程度の規模のままGPU上で古典的に走らせ、標準的な古典手法であるDMRGの精度をほとんどの系で上回ったという報告が出た。著者のHosseini JenabらはこれをNISQ(雑音のある中規模量子計算)ロードマップの相当部分の「脱量子化」と呼び、化学における量子優位性の位置はさらに大きな量子ビット数の側にあるかもしれないと示唆する4。つまり、量子が優位に立ちうる範囲は、古典が苦手とする強相関(電子同士の相互作用が強い系)の領域へ狭まりつつある3。
12,635原子まで来た
タンパク質–リガンド複合体とは、酵素などのタンパク質に薬剤候補などの小分子(リガンド)が結合した状態を指す。結合の強さを第一原理から見積もる波動関数法は精密だが、原子数が増えるほど計算量が膨らみ、これまで小さな系にしか適用できなかった。
Merzらの研究チーム(クリーブランド・クリニック、理研R-CCS、IBM Quantum の計24名)は、量子埋め込みで分子をフラグメントに分割し、各フラグメントを量子と古典を組み合わせたHQC(Heterogeneous Quantum-Classical)法で解くワークフローを開発した2。対象にしたのは、トリプシンとベンズアミジンの複合体(12,635原子/31,795軌道。タンパク質境界から10Å以内に保持した水3,135分子を含む数字だ)と、T4リゾチームとn-ブチルベンゼンの複合体(11,608原子/28,844軌道)である。軌道とは電子が存在しうる空間的な広がりを表す関数で、数が多いほど計算コストが跳ね上がる。
量子側のハードウェアは156量子ビットのIBM Heron r2プロセッサ2台(ibm_clevelandとibm_kobe)で、実際に使ったのはibm_clevelandで最大94量子ビット、ibm_kobeで最大72量子ビットである。原典はこれを利用可能な量子ビットに対する60%と46%にあたるとし、「QPUの相当部分」と評価している2。21,006回の量子回路を実行し、239時間を超える計算時間をかけて30億回の測定結果を得た。古典側は理化学研究所のFugaku(158,976ノード)、NVIDIA GH200を1,120ノード備えるMiyabi-G、およびROQUOの三台を併用している。用いたアルゴリズムはEWF(Embedded Wavefunction)で、フラグメントの求解にはTrimSQDというソルバーを使う。以上の数値は2026年9月の改訂版(v2)に拠る。
両者がどれだけの計算資源を食ったかは、論文の表XIに載っている。最小基底STO-3Gでの計算に限ると、量子側の実機時間は2系合わせておよそ106時間である。対する古典側の対角化はFugakuで約67.8万ノード時を要している2。同じ表にはMiyabi-Gでの約7,700 GPU時も載るが、これは同じ量子サンプルの対角化を別のHPCで解き直した「移植性」確認の計算である2。このFugakuの値は量子側の実機時間のおよそ6,400倍だが、原典がこの比を書いているわけではなく、表の値を合算すると出てくる数字だ。そしてこれは量子側が6,400倍速いという意味ではない。 量子側が担うのはサンプリングだけで、対角化という重い工程は丸ごと古典側にある。この比は、同じ問題を二者がそれぞれ単独で解いた結果の比較ではないので、性能比としては読めない。なお改訂版は、T4リゾチームの基底関数を一部3-21Gへ上げた計算も同じ表に載せており、そちらの古典側はFugakuで約377万ノード時と、同じ系の最小基底の計算に対しておよそ10倍に膨らんでいる2。
成果として著者らは、HQCのこれまでの最先端(303原子)と比べて系のサイズで40倍を超える増加、72.5%の並列効率を報告している2。「精度で最大210倍」のほうは同じ系での比ではない。これは、SQDやExtSQDに基づく先行研究の最大フラグメントでDMRGとの差が21 mHaだったのに対し、本研究のトリプシン最大フラグメントでは0.1 mHaだった、という比である2。
著者自身が「優位性ではない」と書いている
著者らは「we do not regard the results reported here as basis of a quantum advantage claim」と明記する。そのうえで、この結果は二つのことの兆候だと続ける2。一つは「(i) HQC methods are becoming more accurate and efficient」。もう一つは「(ii) progress in computational implementation can further enhance the performance of classical methods」だ。後者は、計算実装の進歩が古典手法の性能をさらに引き上げうる、という意味だ。実際そのあと著者らは、今回の高速化を担った線形代数カーネル SBD-G を古典側のSCI実装へ統合することを今後の目標に挙げている。量子優位性の根拠とはみなさないという慎重さは、自分たちの成果の一部が古典側の底上げに使えるという認識と組になっている。
著者らがこの結論を「As a consequence(その結果として)」と受けているのは、直前で比較の条件を自ら明かした段落である。TrimSQD の速さの主因は SBD-G という実装上の工夫だ、と著者らは書く。著者らは比較相手も「specific CPU-based open-source implementations of SCI and DMRG without particularly developed parallelization strategies」と明かしている。つまり比較相手は、特に並列化を作り込んでいないCPU版の古典ソルバだった2。
別の慎重さも記されている。最小基底STO-3Gで計算した結合エネルギーは、対象の2複合体をEWF–CCSDとEWF–TrimSQDの二手法で解いた4通りすべてで正の値になった(+9.30〜+35.89 kcal/mol)2。原典の符号規約 Ebinding = Ebound − Eunbound − Eligand では正は「複合体のほうが高エネルギー=結合しない」を意味する。実測では強く結合する系であり、著者らはこれを「too positive」と表現している。STO-3Gは基底関数系(分子内の電子分布を近似的に表現する関数の集合)のうち最小限のもので、精度より計算コストの軽さを優先した粗い設定にあたる。改訂版はこの点に手を入れている。T4リゾチームではリガンド近傍の基底関数を3-21Gへ上げ、フラグメントを切り出す浴のしきい値を厳しくすることで、トリプシンではリガンドの電荷が作る静電ポテンシャルのずれを補正することで、いずれも結合エネルギーが負になったと報告する2。表IXの値は二手法でT4リゾチームが−17.31/−21.07 kcal/mol、トリプシンが−130.59/−131.32 kcal/molである2。その代わり前者では古典側の計算量が先に見たとおりおよそ10倍に増え、後者について原典は長距離の電荷ゆらぎの扱いを今後の課題として残している2。
主張は、あとから古典に追いつかれてきた
EisertとPreskillは、量子優位性へ至る道のりに残る四つの「隙間」を整理した論文の中で、発表当初は古典の手が届かないとされ、あとから古典計算で再現された事例を二つ挙げている3。
一つ目は、IBMが127量子ビットの2D kicked Isingモデルで示した量子ユーティリティ(優位性の主張には至らないが、実用規模で古典を上回るとする主張)である。この結果は「were quickly matched by classical calculations using both tensor-network methods and sparse Pauli dynamics」と評される3。テンソルネットワーク法(量子状態の膨大な自由度から重要な相関だけを抜き出し圧縮して古典計算機で扱う手法群)とスパースPauli力学という二種類の古典計算に、すぐ追いつかれたことになる。
二つ目は、D-Waveがスピングラスの動力学について古典の手が届かないとした報告である。この報告についても、原典は「have been partially reproduced using classical tensor-network simulations」と書く。古典的なテンソルネットワークシミュレーションがこの結果を部分的に再現した、という意味だ3。ただし原典は、この応酬をすぐさま古典側の勝ちとは読んでいない。二例の直後で、量子側と古典側のやり取りを「healthy back-and-forth」と評価しつつ、「making a fair comparison involves some subtleties」と留保する3。古典シミュレーションは小さな系に限られがちで、量子側の精度には限りがあり、しかも引き出せる情報は古典シミュレーションの出力からのほうが多い。量子側で測定を何度繰り返しても、この差は埋まらない3。同じ節で原典は、NISQ期の量子シミュレーションは精度が高くなくても定性的には有益でありうるとし、Googleの103量子ビットプロセッサによるout-of-time-order correlatorの計算を、古典シミュレーションが難しいと論じうる領域の例に挙げる3。定量的に有用なデータを得るには、おそらく耐故障量子計算機が要るとも書いている3。本稿が最後に置く問い(同じ問題をいま古典が解けるか)にも、公平な比較には機微があるというこの留保はそのままかかる。
量子アルゴリズムを、古典で走らせる
Hosseini Jenabらは、量子アルゴリズムそのものを古典計算機で走らせた。彼らは工業的に重要なルテニウム触媒の電子構造ハミルトニアンを、100〜124量子ビット規模のままNVIDIAのGPU上で古典的にシミュレーションした4。量子ハードウェアが何かに失敗したことを示す実験ではない。著者らは、IBM Heronの77量子ビットをFugakuと結んだ2025年の量子古典計算をこれまでで最大の例として挙げ、自分たちの古典計算がそれを量子ビット数でも解くまでの時間でも上回ると書いている4。
用いた手法はiQCC(iterative qubit coupled cluster)というアルゴリズムで、もともとは量子コンピュータ上での実行を想定して設計されたものだ。著者らはこの手法について「confines the variational evolution to a classically simulable operator subspace」と説明する4。つまりiQCCは、変分的な状態の発展を、古典的にシミュレート可能な演算子の部分空間に閉じ込める。この制約があるからこそGPU上で再現できる。
著者らは、逐次実行のCPUアプローチと比べて「speedups exceeding two orders of magnitude」を達成したと書く。高速化の幅は二桁を超え、基底状態計算全体は1.2〜45時間で完了した4。精度についても、標準的な古典手法であるDMRG(密度行列繰り込み群、強く相関した電子系を扱うために考案された古典アルゴリズム)を上回ったと報告している。ただし本文はより限定的だ。DMRG-CIのエネルギーを変分的に下回ったのは8系中7系で、残る1系ではiQCCのほうが高い。ところが、その差の数字は原典の中で割れている。本文は6.8 mHaと書き、下回った幅を0.33〜1.8 mHaとするが、表II・IIIが載せる「DMRGとの差」はその1系で+5.382 mHa、残る7系で0.042〜1.965 mHaである4。その1系については、PTやILCAP-BWといった非変分的な摂動補正でもDMRG-CIを下回れなかったと原典は付記している4。しかも比較相手のDMRG-CI値は別論文(von Burg ら 2021)の公表値で、著者ら自身が「軌道順序の工夫や結合次元・スイープ数の増加で下げられる(IX系では−1.7 mHa)」と注記している。つまり、主張された差と、著者ら自身が認める改善余地は同じ桁にある。そのIX系で下回った幅は、表IIIの記載では0.042 mHa、同じ列のエネルギーから引き算すると0.57 mHa。どちらで読んでも改善余地のほうが大きい4。一方で原典は、別文献が報告したXVIII系(64e,56o)のDMRGエネルギーと比べてもiQCCが1.6 mHa下回ったと書いている4。
同じ論文は、8系のうちXVIII系についてはCAS(100e,100o)、量子ビット数にして200まで規模を広げた実行も報告しており、NVIDIA Blackwell B300上で3.49時間で完了したとする4。ここから彼らは「extending classical tractability to the 200-qubit regime on commodity GPU hardware」と書く。彼らは、市販のGPUハードウェア上で古典的に扱える範囲を200量子ビット領域まで広げたとしている。ただしDMRG-CIとの精度比較を行ったのは112量子ビット(CAS(64e,56o))までであり、200量子ビットの実行が示しているのは規模と実行時間である。
この結果を受けて著者らは、自分たちの成果が「effectively de-quantize a significant portion of the NISQ roadmap」だと述べる4。NISQロードマップの相当部分を事実上脱量子化した、という意味だ。原典がここで対比させているのは、化学の量子優位性が現れる境界を約50量子ビットに置いてきた従来の想定である。原典はその想定を「quantum advantage for chemistry is often assumed to emerge beyond ∼50 qubits」と書く。その境界は「significantly further—potentially past 200 qubits」、つまり従来の約50量子ビットより大きく先にあり、200量子ビットを超える可能性もある、というのが彼らの示唆だ。
狙いは「強相関の隅」だ
EisertとPreskillは、米エネルギー省が運用するあるHPC施設の最近の推計として「over 30% of compute cycles are spent on density functional theory computations for chemistry and materials science」を引いている3。その施設の全計算サイクルの30%超が化学・材料のDFT(密度汎関数理論、電子密度から系のエネルギーを近似的に求める手法で、現在の化学計算の主力)に費やされている、という意味だ。同じ推計では格子QCDが18%超、DFT以外の化学アルゴリズムは約2.6%にとどまる。この領域は古典計算機が現に、しかも大量に処理している。続けて原典は、アルゴリズムとハードウェアの双方が進み続けるにつれて「classical methods are conquering more and more challenging problems」と書く3。古典手法はますます難しい問題を征服している、という意味だ。そのうえで、量子計算が優位性を示す標的は「the (now) relatively small ‘strongly correlated’ corner of chemistry and materials research, where classical methods falter」だと述べる3。古典手法が苦戦する、いまとなっては相対的に小さな「強相関」(電子同士の相互作用が強く、単純な近似では振る舞いを記述しきれない系)の隅に絞られるという意味だ。
CastaldoとReiherはこの文脈で、Toshioらによる先行研究を引用している。それによれば、8×8サイトのHubbardモデル(現在の古典計算能力では厳密解が得られないとされるモデル)の選ばれた固有値を推定するプロトコルは、逐次実行でおよそ10日を要すると見積もられている1。これはCastaldoとReiherが自ら測定した数字ではなく、彼らが引用する形で紹介しているものである。
CastaldoとReiherは、同じ問いに別の角度から接近する。実験を報告する論文ではなく、現状を整理して展望を述べるパースペクティブ論文である1。本稿が引く四本のうち査読を経たのはこの一本だけで(2026年7月に The Journal of Physical Chemistry Letters 誌に掲載)、残る三本は査読前のプレプリントである1。量子アルゴリズムの開発は台頭しつつある量子ハードウェアの制約の変化に適応しなければ、計算化学実務での優位性を達成できないと論じる1。そのうえで、コンパイル体制を論じた結論部で「We emphasize that, to date, no clear demonstration of a useful quantum advantage has been achieved yet」と強調して書く1。有用な量子優位性の明確な実証は、今日までのところ達成されていないという意味だ。要旨のほうでは、本稿の題そのものにあたる一文として「the continuous advancement of classical wavefunction-theory methods narrows the window for a broad quantum advantage」と書いている1。古典の波動関数理論が進むほど、広い量子優位性の窓は狭まる、という意味だ。二人は、強相関分子だけを狙うのではなく「weakly correlated (single-reference) structures」を高スループットの計算パイプラインに統合する必要がある、と主張する1。この句は、弱く相関した、単一の参照配置で近似できる構造を指す。
ここで二本の出典は交差する。Hosseini Jenabらが解いたルテニウム触媒は、von Burgらが2021年に量子計算の応用先として提案し、電子積分ファイルまで公開した系である。iQCC論文はその複合体群を「class-2」の例だと書く。同論文によれば、class-2 は多配置電子構造の分類で、古典手法にとって最も難しい標的であり、量子アルゴリズムの自然なベンチマークとされる4。その class-2 という分類を導入したのはMörchenら2024の論文で、共著者にMarkus Reiherが入っている。CastaldoとReiherも同じ class-2 を「very hard to handle on classical computers and therefore considered as ultimate targets for quantum computation」と呼ぶ1。古典計算機では扱うのが非常に難しく、それゆえ量子計算の究極の標的とみなされる、という意味だ。その標的に指名された系が、いまはGPU上の古典計算で1.2〜45時間のうちに解かれている。
どこまで来れば効くのか
誤り訂正(量子ビットが受ける雑音由来のエラーを検出・修正し、計算結果の信頼性を保つ仕組み)の観点から見た敷居も、EisertとPreskillは具体的な数字で示している。物理的な2量子ビットゲートの誤り率はしきい値のおよそ10⁻²を下回る必要があり、たとえば物理誤り率を10⁻³と仮定すると、論理誤り率10⁻¹¹を得るには表面符号の符号距離が d ≈ 19 必要になる。論理量子ビットとは、複数の物理量子ビットを組み合わせ誤り訂正を施し、安定した量子ビットとして扱えるようにしたものだ。彼らはこれを、補助量子ビットと論理ゲートのオーバーヘッドまで含めると論理量子ビット1個あたりおよそ10³個の物理量子ビットにあたるとする。原典が置いている想定は、10³個の論理量子ビットを10⁸ステップ動かす高度に並列なアルゴリズムであり、その規模なら物理量子ビットは全体で約10⁶個になる。原典はそこに「far beyond the scale of current devices」と付し、現行機の規模をはるかに超えるとしている3。もっとも原典自身は、ハードウェア性能の継続的な改善が「いずれ耐故障量子計算のオーバーヘッド費用を下げる(will eventually reduce the overhead cost of fault-tolerant quantum computing)」とも書いている。約10⁶個という数字は、物理誤り率を10⁻³と置いた前提の上に立っている3。
では、どこまで行けば「広く有用」なのか。EisertとPreskillは自前の推計ではなく他者の見積もりを引く形で、その目安を「about 10¹² such operations (a teraquop) or more」に置いている3。これは2量子ビット演算にしておよそ1兆回以上にあたる。今日の最も高性能なNISQ機が実行できるのは同じ演算で1万回未満だから、目標との差は8桁ある。その途中に「megaquop」(10⁶回の演算規模)、「gigaquop」(10⁹回の演算規模)という段階を通ると彼らは想定している。ただし時間軸についての明言は、この段階論に付いたものではない。付いているのは、その手前にある耐故障性への移行のほうだ。原典は、誤り率が桁違いに改善したマシンへの移行が「will unfold gradually on a timescale that remains highly uncertain」と書き、その理由に大規模量子計算機の構築が途方もない工学的挑戦であることを挙げる3。
次の発表を、どう読むか
ここで挙げる二つの問いは本稿自身の読み方であり、四本の論文いずれの結論でもない。次に量子化学の優位性を主張する発表を見かけたとき、量子ビット数の大きさそのものを判断材料にする必要はない。問うべきは二つある。第一に、GPU上のiQCC、テンソルネットワーク法、DMRGなどの古典手法が、同じ問題をいま解けるかどうか。第二に、その問題が実際に強相関の隅、つまり古典手法が苦戦する領域に入っているかどうかである。
三つ目の基準は、本稿ではなく出典の側が置いている。CastaldoとReiherが持ち出すのは、強相関の難物だけでなく弱相関の問題まで日常的に回せて初めて量子計算は古典の真の競合になる、という条件つきの話だ。活性空間を定義する必要のない系では、基準手法はCCSD(T)(電子相関を高い精度で扱う、実務の標準にあたる古典手法)のままだ。だから量子計算化学は「the runtime needed to reach chemical accuracy with CCSD(T)」と比べなければならない、と彼らは書く1。比べる相手は、化学的精度に届くまでにCCSD(T)が要する実行時間である。速さを主張するなら、相手はその時点で現場が実際に使っている古典手法でなければならない、ということだ。
12,635原子まで届いたハイブリッド計算は規模の記録として意味を持つが、著者ら自身が優位性の根拠とはみなさないと明言している2。100〜124量子ビット規模の化学問題は、2026年の時点でGPU上の古典計算に脱量子化されている4。境界の位置は、次に古典側が何を解いたかを見て測り直すことになる。
出典4件
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Davide Castaldo, Markus Reiher(ETH Zurich, Department of Chemistry and Applied Biosciences), “Utility-scale quantum computational chemistry”(arXiv:2603.19081, 2026年3月19日投稿)。査読を経て The Journal of Physical Chemistry Letters 誌に掲載された(2026年7月13日オンライン公開・同月23日誌面、17巻29号8140–8155頁、DOI: 10.1021/acs.jpclett.6c00888)。掲載先はarXivの書誌欄(Journal ref.)に著者らが記載しており、Crossref・Europe PMC(PMC13403305)でも確認できる。実験研究ではなくパースペクティブ論文である(掲載版の種別も review-article)。以下の引用は本注が末尾で示すarXiv版(v1・改訂なし)に拠るが、掲載版にも同一の綴りで在ることを確認した。Full QEM、Mixed QEM/QED、Mixed QED/QEC、Full QECという四つのコンパイル体制を軸に議論し、Toshioらによる8×8サイトのHubbardモデルの固有値推定プロトコル(逐次実行でおよそ10日と見積もられる)を引用する。「We emphasize that, to date, no clear demonstration of a useful quantum advantage has been achieved yet」と強調して明言し、実務的有用性には強相関分子だけでなく弱相関(単一参照)構造への高スループットパイプライン統合が必要だと論じる。比較の基準についても「quantum computational chemistry must compare to the runtime needed to reach chemical accuracy with CCSD(T)」と述べ、量子側の主張はCCSD(T)が化学的精度に達するまでの実行時間と突き合わせるべきだとする(活性空間を定義する必要のない系では基準手法がCCSD(T)のままだ、という文脈での発言である)。https://arxiv.org/abs/2603.19081 / https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.6c00888 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10
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Kenneth M. Merz Jr., Akhil Shajan, Danil Kaliakin, Fangchun Liang ほか(計24名), “Crossing the 12,000-atom barrier with heterogeneous quantum-classical supercomputing: quantum chemistry of protein-ligand complexes”(arXiv:2605.01138, 2026年5月1日投稿・2026年9月5日 v2 改訂。本稿の数値は v2 に拠る)。査読前のプレプリントである。トリプシン–ベンズアミジン複合体(12,635原子/31,795軌道、タンパク質境界から10Å以内に保持した水3,135分子を含む)とT4リゾチーム–n-ブチルベンゼン複合体(11,608原子/28,844軌道、同じく保持水2,986分子を含む)を対象に、量子埋め込みでフラグメント分割したうえでHQC法(EWFアルゴリズム、TrimSQDソルバー)を適用した。156量子ビットのIBM Heron r2を2台(ibm_clevelandで最大94量子ビット・ibm_kobeで最大72量子ビット使用)、21,006回の量子回路実行、239時間超、30億回の測定結果を用い、古典側はFugaku(158,976ノード)・Miyabi-G(GH200を1,120ノード)・ROQUOを併用した(v1 は ibm_kobe 最大40量子ビット、9,200回・100時間超・13億回、古典側は Fugaku と Miyabi-G の2台だった)。HQCの従来最先端(12,635原子対303原子)比で系サイズ40倍超、72.5%の並列効率を報告し、「精度最大210倍」はSQD/ExtSQDに基づく先行研究の最大フラグメント(Trp-cage、DMRGとの差21 mHa)と本研究のトリプシン最大フラグメント(同0.1 mHa)の比だとする。その一方で著者らは「we do not regard the results reported here as basis of a quantum advantage claim」と明記し、最小基底STO-3Gでの結合エネルギーは2複合体を二手法で解いた4通りすべてで正(+9.30〜+35.89 kcal/mol)になったとして「too positive」と表現した。原典の符号規約 Ebinding = Ebound − Eunbound − Eligand では、正は「結合しない」を意味する。v1 はSTO-3G基底関数系とフラグメント構成パラメータの選択を「likely causes」に挙げ検証は今後の課題としていたが、v2 では T4リゾチームは混合基底(リガンド近傍を3-21G)と浴しきい値の締めつけで、トリプシンは静電補正で、いずれも結合エネルギーが負になったと報告し(表IX。T4リゾチーム −17.31/−21.07 kcal/mol、トリプシン −130.59/−131.32 kcal/mol)、その代わり混合基底の計算は古典側が約377万ノード時と「≈ 10×」に増え(表XI)、長距離の電荷ゆらぎの扱いは今後の課題とする。優位性を否認する一文は「(i) HQC法が正確・効率的になりつつある」と「(ii) 計算実装の進歩は古典手法の性能をさらに引き上げうる」の二つの兆候として続き、比較相手が「特に並列化を作り込んでいないCPU版のSCI/DMRGオープンソース実装」であったことを自ら明かした段落を受けている。https://arxiv.org/abs/2605.01138 なお本稿は2026年9月時点で査読誌への掲載版を確認できないが、IBM Quantum の公式ブログ「Researchers use quantum-centric supercomputing to simulate 12,635-atom protein complex」(2026年5月5日)が本プレプリントを名指しで紹介しており、トリプシン12,635原子・T4リゾチーム11,608原子という数値も同ブログに載る: https://www.ibm.com/quantum/blog/cleveland-clinic-riken-chemistry ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13 ↩14 ↩15
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Jens Eisert, John Preskill, “Mind the gaps: The fraught road to quantum advantage”(arXiv:2510.19928, 2025年10月22日投稿/2026年5月21日改訂)。査読前のプレプリントである。量子優位性への道に残る四つの隙間(誤り緩和から能動的な誤り検出・訂正へ、初歩的な誤り訂正からスケーラブルな耐故障性へ、初期のヒューリスティクスから成熟した検証可能なアルゴリズムへ、探索的シミュレータから信頼できる量子シミュレーションでの優位性へ)を整理する。IBMの127量子ビット2D kicked Isingモデルの主張がテンソルネットワーク法とスパースPauli力学で追いつかれたこと、D-Waveのスピングラス動力学の主張が古典テンソルネットワークシミュレーションで部分的に再現されたことを報告する。米エネルギー省が運用するあるHPC施設の推計として、その施設の全計算サイクルの30%超が化学・材料のDFT計算に費やされている(格子QCDが18%超、DFT以外の化学アルゴリズムは約2.6%)と引用したうえで、量子優位性の標的を強相関の隅に絞る。物理ゲート誤り率はおよそ10⁻²未満が必要で、論理誤り率10⁻¹¹には、物理誤り率10⁻³を仮定すると符号距離 d ≈ 19、補助量子ビットと論理ゲートのオーバーヘッドを含めて論理量子ビットあたりおよそ10³個の物理量子ビットが要ると見積もる。全体で約10⁶個という数字は、10³個の論理量子ビットを10⁸ステップ動かすアルゴリズムを想定したときのもので、原典は「far beyond the scale of current devices」と付している。広く有用なFASQ機に必要な演算規模の目安は、他者の見積もりを引く形で約10¹²回(teraquop)以上とし、そこへ至る途中にmegaquop(約10⁶回)・gigaquop(約10⁹回)の段階を置く。「a timescale that remains highly uncertain」と書かれているのはこの段階論ではなく、NISQからFASQへの移行そのものである。https://arxiv.org/abs/2510.19928 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13 ↩14 ↩15 ↩16
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Seyyed Mehdi Hosseini Jenab, Brandon Henderson, Scott N. Genin, “Parallel iQCC Enables 200 Qubit Scale Quantum Chemistry on Accelerated Computing Platforms Surpassing Classical Benchmarks in Ruthenium Catalysts”(arXiv:2603.08883, 2026年3月9日投稿)。査読前のプレプリントである。工業的に重要なルテニウム触媒の電子構造ハミルトニアンを100〜124量子ビット規模でNVIDIAのGPU上に古典的にシミュレートした。うちXVIII系はCAS(100e,100o)=200量子ビットまで広げてB300上で3.49時間で完了しており、原典は「extending classical tractability to the 200-qubit regime on commodity GPU hardware」と書く(DMRG-CIとの精度比較は112量子ビットまで)。対象8系はvon Burgら (2021) が電子積分を公開したCO₂固定触媒サイクルの錯体で、原典はこれを「class-2」(Mörchenら2024の分類で、古典手法にとって最も難しい標的)の例と位置づける。iQCCアルゴリズムは変分的発展を「classically simulable operator subspace」に閉じ込めるとし、逐次CPU比で二桁を超える高速化、1.2〜45時間での基底状態計算完了、DMRGを上回る精度を報告する。ただし本文では8系中7系で DMRG-CI を変分的に下回り(残る1系は6.8 mHa高く、原典はその系ではPTやILCAP-BWといった非変分的な摂動補正でも下回れなかったと付記する)、幅は0.33〜1.8 mHa。同じ論文の表II・IIIはこれと違う値を載せている。「Difference from DMRG (mHa)」の変分値行は、その1系にあたる I 行が+5.382、残る7系が0.042〜1.965 である。さらに表IIIは2行で、記載された差が同じ列のエネルギー値と合わない(IX 行は記載0.042に対し引き算で0.570、VIII-IX 行は記載1.019に対し236.9)ので、表の側にも誤植がある。つまり、本文と表のどちらかが正しい、という形にはなっていない。比較相手は von Burg ら (2021) の公表値で、著者らは軌道順序や結合次元・スイープ数の調整で下げられる(IX系で−1.7 mHa)と注記している。別文献が報告したXVIII系(64e,56o)のDMRGエネルギーと比べてもiQCCが1.6 mHa下回ったとも書く。結論として「effectively de-quantize a significant portion of the NISQ roadmap」とし、化学における量子優位性の位置を「potentially past 200 qubits」と示唆する。https://arxiv.org/abs/2603.08883 なお本稿は2026年9月時点で査読誌への掲載版を確認できないが、OTI Lumionics のプレスリリース「OTI Lumionics Establishes New Computational Chemistry Benchmark, Outperforming Traditional Quantum Models」(2026年3月16日)が本プレプリントを arXiv 番号つきで名指ししている: https://www.globenewswire.com/news-release/2026/03/16/3256749/0/en/OTI-Lumionics-Establishes-New-Computational-Chemistry-Benchmark-Outperforming-Traditional-Quantum-Models.html ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5 ↩6 ↩7 ↩8 ↩9 ↩10 ↩11 ↩12 ↩13
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