神経科学・BCI・生物
脳の全配線図を描いても、脳は分からない
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2024年10月、神経科学の金字塔が立った。成体ショウジョウバエの全脳コネクトーム——約139,255個のニューロンと、その間の5,000万を超えるシナプスの完全な配線図(FlyWire)が、9本の論文として『Nature』に発表された1。200人超・50研究室が関わった、これまでで最大かつ最も完全な動物脳の配線図だ。
これは「脳を丸ごと測り尽くす」という夢の、ひとつの到達点である。だが——それでも、脳がどう動くのかは分からない。この「分からなさ」自体が本題だ。
約40年前に、答え合わせは終わっていた
実は前例がある。線虫 C. elegans だ。たった302個のニューロンしか持たないこの生き物の全配線図は、約40年前(1986年)に完成している。神経科学で最初に「コネクトームを完全に解いた」生物だ2。
では、その302個の配線が分かったことで、線虫の行動は説明できるようになったか。答えは——部分的にしか、できていない。302個の神経で線虫は方向転換し、迷路を抜け、刺激に適応し、連合学習までする。だが配線図は、その仕組みを教えてくれなかった。40年かけても、だ。頭部の23,433対のニューロンを光遺伝学で一つずつ刺激し、信号の伝わり方を測った研究も、伝播が解剖学的な予測からずれること、その差にシナプス外の伝達が効いていることを報告している3。14万ニューロンのハエで急に話が変わると考える理由は、あまりない。
配線図に載らないもの
なぜか。静的な配線図は、機能を生む情報の多くをそもそも記録していないからだ。
- 符号(興奮か抑制か)。同じ「つながっている」でも、相手を興奮させるか抑制させるかで意味は正反対になる。配線図そのものには、これが載らない。もっともこの穴は埋まりつつあり、線虫では主要な神経伝達物質すべてをノックイン標識で調べた「神経伝達物質アトラス」が2024年に報告されている4。符号は原理的に測れないのではなく、配線とは別に測りにいくものだ。
- 時間とダイナミクス。行動は時々刻々と変わる。だが配線は固定だ。同じコネクトームが、文脈次第でまったく違う行動を生む。構造と行動のあいだに1対1の対応はない。
- 神経修飾(ニューロモジュレーション)。ドーパミンやセロトニンは、同じ回路の「効き方」そのものを書き換える。配線の上に、見えない可変抵抗が乗っている5。
- そもそも素子が教科書通りでない。線虫のニューロンは、古典的なナトリウムスパイク(活動電位)をほとんど示さない。連続的な膜電位で計算している。配線図は、その素子特性を一切語らない。
極めつけは、ばらつきがノイズではないことだ。同じ個体でも、個体間でも、神経活動は揺れる。だがこの揺れは雑音ではなく、適応と「個性」の本体——消してはいけない信号だ。
地下鉄の路線図
コネクトームは地下鉄の路線図だ。どの駅とどの駅がつながっているかは完璧に分かる。だが、路線図は教えてくれない——いつ電車が走るのか、誰が乗るのか、その路線が街にとって何のためにあるのかを。
だから神経科学では「コネクトームは必要だが十分ではない」が定説になっている。実際、構造と機能の結合は、思ったよりゆるいことが分かっている。配線という地図の解像度をどれだけ上げても、領土——動き、時間、修飾、状態依存性が織りなすダイナミクス——は、地図とは別物なのだ。
それでも、無駄ではない
配線図は土台として本物の価値がある。実際、ある魚(ゼブラフィッシュ)では、配線図から作った神経回路モデルが、眼球運動中の神経活動を集団レベルで統計的に言い当てた。脊椎動物で配線から機能を予測できた初の例だ6。ハエでも、配線と推定した神経伝達物質だけから組んだ全脳の発火モデルが、糖や水の味覚ニューロンを刺激したときに応答するニューロンと摂食開始に必要なニューロンを言い当て、光遺伝学と行動実験で確かめられたと報告されている7。FlyWireも、神経伝達物質の種類や細胞型といった別の層のデータを重ねることで、性差の回路マップなど新しい研究を次々生んでいる。
コネクトームは「答え」ではなく「最初の一歩」だ。問題は、それを答えと取り違えることにある。
結論:測り尽くしても、足りないとき
足りないのは、データの量ではなく種類だ。
コネクトームは「すべてを測り尽くす」という夢の純粋な達成形だ。それでも理解に届かないのは、静的な地図には、機能が宿るダイナミクスが載らないから。もっと配線を、もっと解像度を、という方向だけでは越えられない壁がある。
データを増やすことが答えになるのは、それが正しい種類のデータであるときだけだ。脳はいま、人類が「全部測ったのに分からない」を最も鮮明に突きつけてくる対象になっている。
出典
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FlyWire 全脳コネクトーム(成体ショウジョウバエ、約14万ニューロン・5,000万超シナプス、9本の論文群), Nature(2024)。 https://www.nature.com/collections/hgcfafejia ↩
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J. G. White, E. Southgate, J. N. Thomson & S. Brenner「The Structure of the Nervous System of the Nematode Caenorhabditis elegans」, Phil. Trans. R. Soc. Lond. B 314, 1–340 (1986)。動物で初の完全な配線図(302ニューロン)。 https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstb.1986.0056 ↩
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F. Randi, A. K. Sharma, S. Dvali & A. M. Leifer「Neural signal propagation atlas of Caenorhabditis elegans」, Nature 623, 406–414 (2023), doi:10.1038/s41586-023-06683-4。頭部23,433対のニューロンを直接光遺伝学的に刺激し全脳カルシウムイメージングで応答を測定。信号伝播が解剖学ベースの予測とずれること、シナプス外シグナリングがその差に寄与することを報告。 https://doi.org/10.1038/s41586-023-06683-4 ↩
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C. Wang, B. Vidal, S. Sural, … O. Hobert「A neurotransmitter atlas of C. elegans males and hermaphrodites」, eLife 13:RP95402 (2024), doi:10.7554/eLife.95402.3。主要7種(グルタミン酸・アセチルコリン・GABA・セロトニン・ドーパミン・チラミン・オクトパミン)についてCRISPRノックインレポーター16系統を雌雄同体・雄の双方で解析し、「現時点で最も網羅的な全個体レベルの神経伝達物質使用マップ」と報告。 https://elifesciences.org/articles/95402 ↩
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E. Marder, “Neuromodulation of Neuronal Circuits: Back to the Future”, Neuron 76(1), 1–11 (2012)。甲殻類の口胃神経節(stomatogastric ganglion)を主な題材に、神経修飾物質が回路の出力を大きく組み替えることを示した総説——著者の言葉では「解剖学的なコネクトームは最小限の骨格を与えるにすぎず、機能的な回路を実際に構成・規定するのは神経修飾の環境である」。 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23040802/ ↩
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幼生ゼブラフィッシュ脳幹の配線図から機能(眼球運動の符号化・神経活動)を予測し生理データで検証——脊椎動物で配線から機能を予測した初例, Nature Neuroscience(2024)。 https://www.nature.com/articles/s41593-024-01784-3 ↩
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P. K. Shiu, G. R. Sterne, N. Spiller, R. Franconville ら(責任著者 K. Scott)「A Drosophila computational brain model reveals sensorimotor processing」, Nature 634(8032), 210–219 (2024), doi:10.1038/s41586-024-07763-9。成体ショウジョウバエ全脳コネクトームと推定神経伝達物質からleaky integrate-and-fireモデルを構築し、糖・水の味覚ニューロン刺激で応答するニューロンと摂食開始に必要なニューロンを予測、光遺伝学的活性化と行動実験で検証したと報告。 https://www.nature.com/articles/s41586-024-07763-9 ↩
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