脳の全配線図を描いても、脳は分からない
2024年10月、神経科学の金字塔が立った。成体ショウジョウバエの全脳コネクトーム——約139,255個のニューロンと、その間の5,000万を超えるシナプスの完全な配線図(FlyWire)が、9本の論文として『Nature』に発表された。200人超・50研究室が関わった、これまでで最大かつ最も完全な動物脳の配線図だ。
これは「脳を丸ごと測り尽くす」という夢の、ひとつの到達点である。だが——それでも、脳がどう動くのかは分からない。この事実こそが、本当に興味深い。
30年前に、答え合わせは終わっていた
実は前例がある。線虫 C. elegans だ。たった302個のニューロンしか持たないこの生き物の全配線図は、30年以上前に完成している。神経科学で最初に「コネクトームを完全に解いた」生物だ。
では、その302個の配線が分かったことで、線虫の行動は説明できるようになったか。答えは——ほとんどできていない。302個の神経で線虫は方向転換し、迷路を抜け、刺激に適応し、連合学習までする。だが配線図は、その仕組みを教えてくれなかった。30年かけても、だ。14万ニューロンのハエで急に話が変わると考える理由は、あまりない。
配線図に載らないもの
なぜか。静的な配線図は、機能を生む情報の多くをそもそも記録していないからだ。
- 符号(興奮か抑制か)。同じ「つながっている」でも、相手を興奮させるか抑制させるかで意味は正反対になる。配線図にはこれが載らない。線虫ですら、大半のニューロンでどの神経伝達物質・受容体が使われているか分かっていない。
- 時間とダイナミクス。行動は時々刻々と変わる。だが配線は固定だ。同じコネクトームが、文脈次第でまったく違う行動を生む。構造と行動のあいだに1対1の対応はない。
- 神経修飾(ニューロモジュレーション)。ドーパミンやセロトニンは、同じ回路の「効き方」そのものを書き換える。配線の上に、見えない可変抵抗が乗っている。
- そもそも素子が教科書通りでない。線虫のニューロンは、古典的なナトリウムスパイク(活動電位)をほとんど示さない。連続的な膜電位で計算している。配線図は、その素子特性を一切語らない。
極めつけは、ばらつきがノイズではないことだ。同じ個体でも、個体間でも、神経活動は揺れる。だがこの揺れは雑音ではなく、適応と「個性」の本体——消してはいけない信号だ。
地下鉄の路線図
うまい比喩がある。コネクトームは地下鉄の路線図だ。どの駅とどの駅がつながっているかは完璧に分かる。だが、路線図は教えてくれない——いつ電車が走るのか、誰が乗るのか、その路線が街にとって何のためにあるのかを。
だから神経科学では「コネクトームは必要だが十分ではない」が定説になっている。実際、構造と機能の結合は、思ったよりゆるいことが分かっている。配線という地図の解像度をどれだけ上げても、領土——動き、時間、修飾、状態依存性が織りなすダイナミクス——は、地図とは別物なのだ。
それでも、無駄ではない
誤解しないでほしい。配線図は土台として本物の価値がある。実際、ある魚(ゼブラフィッシュ)では、配線図から作った神経回路モデルが、眼球運動中の神経活動を集団レベルで統計的に言い当てた。脊椎動物で配線から機能を予測できた初の例だ。FlyWireも、神経伝達物質の種類や細胞型といった別の層のデータを重ねることで、性差の回路マップなど新しい研究を次々生んでいる。
コネクトームは「答え」ではなく「最初の一歩」だ。問題は、それを答えと取り違えることにある。
結論:測り尽くしても、足りないとき
このサイトで何度も戻ってくる主題に、また行き着く。ボトルネックは、たいてい一番目立つデータではない。
コネクトームは「すべてを測り尽くす」という夢の純粋な達成形だ。それでも理解に届かないのは、足りないのがデータの量ではなく種類だから——静的な地図には、機能が宿るダイナミクスが載らない。もっと配線を、もっと解像度を、という方向だけでは越えられない壁がある。
データを増やすことが答えになるのは、それが正しい種類のデータであるときだけだ。脳はいま、人類が「全部測ったのに分からない」を最も鮮明に突きつけてくる対象になっている。
参考: FlyWire 全脳コネクトーム (Nature, 2024-10; 139,255ニューロン/5,000万シナプス); C. elegans の構造-機能ギャップ (2025); 「necessary but not sufficient」; ゼブラフィッシュ配線図からの活動予測 ほか。
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